学校の先生は損か?

「学校の先生はそこまで踏み込めないのではないか。」

そう考えて、学校の先生になろうと思えなかった時期があります。

学生時代に東京都内の某個別指導塾でアルバイトをしていました。とても素直で屈託のない子、世の中に対して冷めているようだけれど自分の将来については頑張ってなんとかしなければと思っている子、誰にも素直になれず最後の力を振り絞って塾へ通っている中3の子、どうやって勉強していいかわからないけどとにかく学校の先生に対しては首を縦に振りたくない子…。ほんとうに色々な子がいました。

その時は学生で、生徒と年が近かったからというのもあったかもしれませんが、圧倒的に学校の先生より踏み込んだ会話ができているという確信を持っていました。

「もっと言葉を届けたいなら学校の先生というポジションは損なのではないか?」

 

あれからしばらく経って、今は、その先生次第なのではないかと考えるようになりました。

以前このブログでも書きましたが、私は子どもの頃、先生を人だとは思っていませんでした。尊敬の念はもちろん持っておらず、まともな会話をした覚えはありません。しかし、そんな中でも好きな先生はいて、普段は誰にも話さないようなこともアクシデント的に話したかもしれないと今になって思い出しています。その「好き」は「信頼」ということだったのだと思います。

子どもの相談する場所についての記事(誰にも悩み相談できない…10代の本音から見えた「日本の課題」(森山 誉恵) | 現代ビジネス | 講談社(1/6))を見ましたが、もともと大人に相談する子どもは少ないのではないかと思います。いろいろもがき苦しむ中で海外のロックバンドに出会い「お〜、俺の苦しみを代弁してくれるのはこいつらしかいねえぜ!!!」と拠り所を見つけたりするものです(←ステレオタイプの青春)。直接悩みを相談することはなくとも、子どもを近くで常に見守り、いざという時に的確に導いてあげられる確率が高いのはやはり学校の先生かもしれない、と。

自分はもちろん「悪い子ども」だったのですが、きっと私に尊敬されなかった当時の先生も生徒と向き合うことをしなかった「悪い先生」だったのではなかろうかと自分をちょっとだけ棚に上げて考えてみたとさ。

 

若きウェルテルの悩み (新潮文庫)

kindle版