どうして「国語」を勉強しなければならないのか

生まれたときから日本語を話している私たちは、どうして学校で「国語」を勉強するのでしょうか。国語科の教師はもちろんのこと、現在進行形で国語を勉強しなければならない子どもたちにとっては人生の中でも大きなウェイトを占める大問題であります。

「どうして勉強するのか」という出発点から考えると少し難しい気がしたので、「役に立った経験」から紐解いていくことにしました。

もし、国語の授業で役に立ったと思うこと、というテーマでアンケートを取ったらどんな答えが予想されるでしょうか。

・様々な作品を読んで知らない世界に触れることができた。

・運用できる語彙が増えた。

・えーと、…えーと、 … ???

 

あくまで上記は個人の経験に基づく想像の範囲内ですが、つまり、国語は単なる読書の場でしか機能していないことになります。

国語は知らない世界を紹介する場であるべきだとは思いますが、言語の可能性に潜在的にでも気づいている人であれば自ら興味を広げていけるものの、私のように全く気づいていない人にとっては読書の場は苦痛でしかありません。おそらく「読書好きは国語の授業が好きで、読書嫌いは国語の授業が嫌い」という図式は大きく外れるものではないと思います。

私たちの世界は言葉そのもののみならず映像や記号などのコミュニケーションで成り立っています。それを前提として文科省の学習指導要領では言語活動において理解する力・発信する力などを国語科の目標に置いています。お上は国語科を、日常生活では補いきれない、世界の中で生きていくために必要な言語活動の訓練をするべき場所として位置づけています。

しかし、国語が単なる読書の場に成り下がっているのはどうしてなのでしょうか。それは本(文章)の内容が外の世界とつながっているということを意識させていないからだと思います。

世の中では驚くほど多くのミスリーディングや誤解が起こっています。国会で話し合いが平行線をたどる事、フェイクニュースで世の中が大きく動くこと、摩擦や紛争がいつまでもなくならないこと…。世の中をよくよく観察してみると、大人でさえ言語を操ることは難しい、というより、未だ操縦不能とも言えるものなのです。読解問題でも生徒がそれぞれ違う答えを書くということは、実は人によって捉える「事実」が違うということなのです。

このようなことを常に子どもたちに意識させるべきだと思います。そういった仮想の戦場に身を置き、言葉によって目の前の課題を解決したという成功体験を教室の中で積み上げることで、子どもたちはもっと人間社会における言語活動の必要性を理解できるのではないでしょうか。

 

人間は愚かな生き物で、社会を形作った頃から未だに完成し得ていない分野、それが「ことば」なのです。そう考えてみると、「国語」をしっかり勉強する価値はありそうです。

 

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