作者が解いて満点取れない問題

こんな話を聞いたことがありませんか。

 

「文章を書いた作者本人が満点取れなかった」

 

私自身高校生の頃はこの話は聞いたことはありませんでしたが、現代文はとにかく苦手で、「〜せよ」口調で聞いてくる問題に「お前に何がわかるんだよ」と悪態をついたものでした。

 

 まるで伝わらない言語を運用していては社会では生活していくことはできませんので、ある程度多くの人に意味が認められる言葉や表現を使うことが求められます。

国語科は社会でスムーズな言語活動ができる力を身につける場で、このような「与えられた情報から書いてあることを客観的に読み解く力」はできるだけ多くの人が納得できるような解答でなければならない試験問題を解くことで身につくのかもしれません。

 

最初の話に戻りますが、試験問題は論理的に納得できるものでなければなりませんから、評論や論説で作者がまるで解けないというようでは、多くの人に伝えることができない文章を書いているということを自ら証明することになります。それは「論」ではありません。また、主観に囚われて客観的に読めていないといういい例でもあると思います。

使われている言葉・表現の意味を手がかりに論理的に捉える力がなければ、「好き=正しい、嫌い=正しくない」という客観性のないロジックにはまってしまい、世の中の事象をミスリーディングしてしまいます。

小説や詩などは「芸術作品」という方が近いでしょうから、解釈の幅はあってしかるべきです。しかし、行間を読むとしても根拠を見失ってはミスリーディングでしょう。妄想・二次創作は個人の趣味でやってください。それをこの作品の世界観だとして他人に押し付けてはいけません。

 

とは言え、学校を卒業した大人たちの社会でもミスリーディングは日常茶飯事で、どうしてこうもうまくいかないのだろうと思うのですが、文脈などから「答えはこうだ!」と自分の中で時間をかけて導き出すのに、帰ってきた答案用紙には大きなバツがついているのです。まだまだ共感する力が足りないんですよね。

小説は他人の人生を体験できるものです。主観のない人間なんていません。この「他人の人生」を借りながら、この人はどういう気持なんだろうと思いを巡らし、色々な答えに共感する訓練を子どものうちから積み重ねれば、世の中はもっと生きやすくなるのではと思います。

人の世はまさに作者不在の小説世界。国語の試験問題だけでは解けない代物です。

 

            

だから、読み手に伝わらない! (もう失敗しない文章コミュニケーションの技術)