世界の分断を生み出しているもの

言語の効果的な役割とは何でしょうか。社会の中で他者と円滑にコミュニケーションができることです。わたしたちは毎日をスムーズにこなすために一定の社会ルールの下で言語を使って他者とコミュニケーションしています。

その中でもし、相手と違う意見を持ってしまった場合、実社会ではどんな事が起こるでしょうか。大体、そこで「議論」というものが発生します。

 

みなさんは「議論」、うまくできますか?

私は昔から自分の気持や意見を話そうとすると泣きたくなってしまって、うまく伝えられませんでした。仕事でも、相手の立場を慮って譲歩して「その場をうまく収める」ことに終始してしまいがちです。でも、それって実は物事をいい方向に変えるやり取りにはなっていないんですよね(反省。考えてみれば世の中の人々を見ても、物事をいい方向に変える「議論」はなされていないように感じます。

 

さて、違う意見を持った人と対立したとき起こる現象として、

 

「違う!違う!私の意見は間違っていない!あなたの意見が間違っているんだ!」

と、まるで子どもが自分を通せなくて地べたに寝転がり手足をバタバタさせるが如く、とにかく感情に任せて相手の意見を否定する。挙句の果てには、「お前嫌いだからしゃべるな」と、意見ではなく人格を攻撃することもインターネットを中心にしばしば見られるのはとても残念なことです。

 

やはり、意見に対してジャッジするには根拠が必要ですよね。

「〇〇という点からあなたの意見は間違っています。その点私の意見は△△だから私の意見が正しい。」

相手の意見を潰して、なおかつ自分の意見が正しいことを証明する。これならジャッジは成功しているようです。

ただ、実社会においてこのやり方がいいかというと必ずしもそうではないかもしれません。まず、「意見を批判された」イコール「自分が否定された」と感じてしまう人が多いからです。そうなるとお互いの関係はギクシャクしてしまいます。上の立場の人に意見できない、という場合もこれに当たるのではないでしょうか。また、相手の意見を潰すことに躍起になるあまり盲目的に自分の意見が正しいと信じ込んで、相手の立場から思考することをやめてしまうことも考えられます。「議論が平行線をたどる」のはこれが原因でしょう。

 これって建設的な議論でもなんでもないですよね。

 

「Aという意見もあるんですね。Bということも考えられるのですが、お互いの共通の問題意識XXにおいては、Cがいいかもしれません。」

世の中、正誤の判断ができる問題ばかりではありませんし、どちらがいいか決めず新たな結論を導き出すこともコミュニティーの中では大事だし、自分の意見に固執しない方法でもあります。それに一人で考えた結論よりも、他の人の見方を取り入れて展開された議論のほうが最終的にはいい結論に導かれることが多いのではないかということです。

 

 

今世界で起きているのは分断です。右か左、AかB。それ以外は「深く考えていない」「臆病者だ」と言われてしまう風潮があります。

世の中がこんなにも分断されてしまっているのは、インターネットによって、昔なら出会わなかったであろう「グループ」の人が出会ってしまったからだという意見があります。同じムラであれば「言わなくてもわかる」ということができたのかもしれませんが、今は一つの塊になってしまい、それゆえぶつかり合い、軋轢を生んでいます。

そんなとき、多くの人が客観的に議論できるスキルを持っていたらどうでしょうか。人格と理論を完全に分けた議論をすることで、右か左かの極論でいつまでもせめぎ合いを続けるということもなく、人類を一歩先へ進ませることができると思います。

特に日本人は議論ができない集団として位置づけられているし、分断がより顕著になった現代はさらに、子どもの時から言語を操る訓練をしていく必要があると思うのです。もちろん総合の時間で〈ふにゃふにゃ・・・〉と一つの社会的テーマについて思いを馳せるというのもいいのですが、やはり国語科でメインの活動としてがっつりと取り組みたいと思っているところです。

入試問題は読解がほとんどを占めているため、国語の授業も読解が多くなってしまうのはやむを得ませんが、実践的な言語活動の訓練を積極的に入れていかなければ、日本のそして世界の荒廃は一層進んでいってしまうことでしょう。

 

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